鉄条網の向こうに見えたもの アウシュヴィッツ収容所
2009年 06月 27日
4月の頭、日本滞在中の家族の留守の間、ポーランドで3日間ほど一人旅を敢行した。
以前から一度は訪れてみたかった、アウシュヴィッツ強制収容所に行くためである。
第二次大戦時、ナチスドイツによりユダヤ人や政治犯・同性愛者などが大量殺戮された、誰もが知るこの収容所の跡地は、ポーランド第三の都市「クラクフ」から50kmほど離れた郊外にある。
大戦中は、欧州各国から28の民族がここに送られ、ある者は即座に殺され、またある者は過酷な重労働の末に殺された。子供や老人・病人など過酷な重労働に適さない人々は無論、前者であったという。
敗戦したナチスは、当時この収容所を破壊して証拠隠滅を図ったが、オランダ軍が先に到着しそれを阻止した。よって人々が収監されたバラックや殺人工場となったガス室や焼却炉など、今では博物館となり見学が可能である。150万人といわれるここでの死者が残したおびただしい数の鞄や靴、眼鏡などの装身具も展示されている。
何度も深呼吸をしながら、展示物を見て回る。
最後には胃が痛くなって座り込んでしまったのは、想像していた範囲内。
ここを訪れることで新しい何かを感じることが出来たのか、その何かを文章にすることはとても難しい。
「何故これほどまでにシステマティックに人を殺せることが出来るのだろうか?」
「それは、『戦争』によって全ての感覚を麻痺させられるからだ」
色々考えた。しかし、自分の見解を結論づけるのは本当に難しいし、当時を生きているわけではない自分が簡単に結論に達することは、ここで殺人ガスや銃殺・餓死等で命を奪われた人々に何だか申し訳ない気がする。
ただ、こうしてこの場所を訪れて、「考えて悩む」ことは僕の人生には有益であると自分を納得させることは出来た。訪れた人を考えさせて悩ませる=問題意識を植え付けさせるため、この収容所跡地は後世に残されていくべきなのだ、と思う。
そして「考えて悩む」上で、大事なこと。
それはここに収容された人々は、時代は違うが今の僕たちと全く変わらない人間だったということ。
僕たちと同じように愛する家族がいて、役割や仕事があり、生活があり、笑い、怒り、味わい、様々なことを感じながら生きていたこと。そして、これほど劣悪な環境で物理的に・精神的に痛めつけられても、彼らは必死に「生きよう」としたこと。
中には日々の重労働や空腹に耐えかね、またガス室送りにされた家族の後を追おうと、高圧電流が流れる鉄条網を自ら触って命を絶つ人も多くいたらしい。その時、彼らは何を思ったのだろう。
60年以上も経過した今、その鉄条網の先にはやわらかい空の青と、穏やかな田園風景が広がっていた。
以前から一度は訪れてみたかった、アウシュヴィッツ強制収容所に行くためである。
第二次大戦時、ナチスドイツによりユダヤ人や政治犯・同性愛者などが大量殺戮された、誰もが知るこの収容所の跡地は、ポーランド第三の都市「クラクフ」から50kmほど離れた郊外にある。
大戦中は、欧州各国から28の民族がここに送られ、ある者は即座に殺され、またある者は過酷な重労働の末に殺された。子供や老人・病人など過酷な重労働に適さない人々は無論、前者であったという。
敗戦したナチスは、当時この収容所を破壊して証拠隠滅を図ったが、オランダ軍が先に到着しそれを阻止した。よって人々が収監されたバラックや殺人工場となったガス室や焼却炉など、今では博物館となり見学が可能である。150万人といわれるここでの死者が残したおびただしい数の鞄や靴、眼鏡などの装身具も展示されている。
何度も深呼吸をしながら、展示物を見て回る。
最後には胃が痛くなって座り込んでしまったのは、想像していた範囲内。
ここを訪れることで新しい何かを感じることが出来たのか、その何かを文章にすることはとても難しい。
「何故これほどまでにシステマティックに人を殺せることが出来るのだろうか?」
「それは、『戦争』によって全ての感覚を麻痺させられるからだ」
色々考えた。しかし、自分の見解を結論づけるのは本当に難しいし、当時を生きているわけではない自分が簡単に結論に達することは、ここで殺人ガスや銃殺・餓死等で命を奪われた人々に何だか申し訳ない気がする。
ただ、こうしてこの場所を訪れて、「考えて悩む」ことは僕の人生には有益であると自分を納得させることは出来た。訪れた人を考えさせて悩ませる=問題意識を植え付けさせるため、この収容所跡地は後世に残されていくべきなのだ、と思う。
そして「考えて悩む」上で、大事なこと。
それはここに収容された人々は、時代は違うが今の僕たちと全く変わらない人間だったということ。
僕たちと同じように愛する家族がいて、役割や仕事があり、生活があり、笑い、怒り、味わい、様々なことを感じながら生きていたこと。そして、これほど劣悪な環境で物理的に・精神的に痛めつけられても、彼らは必死に「生きよう」としたこと。
中には日々の重労働や空腹に耐えかね、またガス室送りにされた家族の後を追おうと、高圧電流が流れる鉄条網を自ら触って命を絶つ人も多くいたらしい。その時、彼らは何を思ったのだろう。
60年以上も経過した今、その鉄条網の先にはやわらかい空の青と、穏やかな田園風景が広がっていた。
by mikihiko_makita
| 2009-06-27 10:33